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vol.7 生原洋征さん 〜夢〜

第1回:生原洋征という人

平成16年10月12日の合併後、笛吹市の一地域となった春日居町は春は桃の花が一面に咲き、町中がピンク色となりとても綺麗なところだ。

知る人ぞ知る春日居の桃のブランド価値。生産量はさほどでもないが味では生産者が誇りを持っているはもちろん、東京都内の有名店がその名前で買うほどという。
山梨百名山の一つである兜山も有名。標高913mという低山だが、その名の通り兜に似た山容はなかなかの風格だ。シーズンになると大きなリュックを背負った登山者たちが中央線の春日居町駅に降り立ち普段は人気の無い駅も賑わいを見せる。時には観光協会の方が町の名物である『鯉こく』のサービスで迎えてくれることも。

町を横断している笛吹川にはかつてたくさんの鯉が泳いでいた。笛吹川は流れが速く身の引き締まった鯉が育つと全国的にも有名だった。現在も多少は川で鯉の姿を見かけることができるが、観賞用の『錦鯉』の養殖の方が主流になっている。
その『錦鯉』を春日居町に運んできたのがvol.7でご紹介する生原洋征さん(61)。徳光和夫さん似の人情味のある瞳の奥にある人間的な魅力に迫ります!

『ひらめき』

笛吹市役所春日居支部の近くを走っていると目に留まる大きな看板。

生原さんは生まれも育ちも春日居町。お父さんの代から始めた養鯉業は長男である生原さんが継ぐことは生まれたときから決まっていたようなものだった。
公立の小学校・中学校を卒業し、高校へ進むとき生原さんは商業高校≠選んだ。今となってはどうして自分がそう思ったのかはっきり覚えていないが周囲は桃と葡萄で囲まれた果物の町、ほとんどが農業科へ行く中の選択だった。

ひらめき≠ヘ19歳のときだった。 高校を卒業し、家業である養鯉業を手伝い始めたが、時代は食用の鯉だけでは生き残っていくのに難しい流れになっていくと常々感じていた。そんな頃TVか何かで新潟県山古志地域の『錦鯉』を観た。
この鮮やかな観賞用の鯉が次世代の町を担っていくと直感的に思った生原さんは、それから2〜3日後には自家用車で14時間かけ、山古志へ向かった。そして帰りには乗用車の助手席にまで錦鯉の入ったビニールを詰め込んで…。

この頃ビニール袋≠ェ日本に流通し始め、遠方の地域からの大量輸送が可能となったことも幸いした。
以前は桶などに入れて列車などで運んでこなければならなかったので輸送には限りがあったのだ。

『思い立ったが吉日』というような気質の生原さん。山古志から500匹ほどの錦鯉を買って来たものの生簀≠作っていなかった為一時的に池に放し、慌てて柿の木を切って生簀を作ったそうだ。

上から覗くとまるで万華鏡の様な錦鯉。

しかし、柿木はちょうど色づき始めたばかりの頃。
今ではまだ青いうちに収穫し出荷することも普通となっているが、当時は熟したもの以外は出荷されていない時代だったため周囲からは『変わり者』という目で見られた。
このエピソードは近所で伝説となり、24歳の結婚式のとき区長の挨拶でも笑い話として暴露されたそうだ。

(ちなみに…色づき始めたばかりの柿を一応出荷したところ珍しがられ予想外の売れ行きで思わぬ収入に本人も驚いたそうだ。)

そして、生原さんのひらめき£ハり錦鯉も小売りも好調だった。 価格はラーメン一杯が¥400〜500という時代に一匹¥100〜5,000ほど。

この辺りでは見たことも無い美しい鯉は庶民にも手の届く価格のものもあったことから幅広い客層に人気となった。
ピークの頃はGWに店の前に車の行列が出来てしまい、おまわりさんが来たという騒動もあったほど。
こうして生原さんは春日居に『鯉の観賞用の時代』を切り開いた。

現在では町の名物となっている錦鯉は一人の青年の“ひらめき”からだったのだ。


『どんぐり会』

生原さんが電話をすれば近所の仲間たちがすぐに集合。『昼飯行かだぁ。』


現在生原さんは『どんぐり会』と称して17名の会員と共に12月に生原自宅にて『鯉こく』を食べるという恒例行事を行っている。
この『どんぐり会』は生原さんのある偶然の出会いから始まった。

生原さんが29歳の時、義弟たちといつもの様に近くの山に猟に出かけた。
その時不運にも仲間の放った散弾銃の手元が狂い、バラ弾が生原さん目掛けて降ってきた。

生原さんは弟と共に病院に向かった。 猟をしていた近くにある北杜市内の病院に行くか地元に近い山梨市にある加納岩総合病院に行くか…。 太腿を中心にたくさんの弾が当たったままの状態だったが、そこに冷静な自分がいた。
考えた末、入院が長くなることを踏まえ家族が通いやすい加納岩総合病院を選んだ。

運ばれた時は休日だったため加納岩総合病院には当直の胃腸外科医の門馬先生しかいなかった。
専門外だったが門馬先生の懸命な処置を行ってくれた。
その後専門医によって入院していた4ヶ月の間に7回もの手術をし、全部で77発の弾丸が生原さんの足から摘出された。

入院当初、担当医から最悪片足の自由が利かなくなるか、そうでなかったとしても何らかの後遺症が残るだろうと言われていた。
そして貫通すれすれの弾まであった自分の足を見ながら生原さんもそれを覚悟していた。
しかし当直医だった門馬先生の適切な処置と加納岩総合病院の先生方のおかげで後遺症が残ることも無く無事退院することが出来た。

またこの大怪我が人生の転機ともなった。
『カッコつけてる様だけど、一時は諦めたこの足がたくさんの人のおかげでこうして良くなって、自分も人のためになることをやりたいって思うようになったんだ。』
それからの生原さんは積極的に地域活動などを引き受けるようになったという。

入院生活の中、門馬先生はよく生原さんの部屋を訪れ一緒にお茶を飲む間柄となった。
そしてある時院長からこんなことを言われた。
『生原さん、退院してからも門馬先生を連れ出してやってくれないか。』

生原さんの前では気軽に世間話をする門馬先生だったが、実はなかなか他の人とは交わらないタイプで院長も気がかりなところがあったそうだ。

それがきっかけで生原さんが仲間と一緒に集まる時には門馬先生にも声を掛け、飲みに行ったりゴルフをしたりするようになった。
そんな仲間達で作ったのが『どんぐり会』のもととなる会だった。
最初は1桁だった会員も徐々に増え、現在は17名。さらに近年では生原さんの関係から春日居に自主トレーニングで来るプロ野球選手も加わるようになり、気兼ねの無い雰囲気の中で鯉を味わい、杯を傾ける賑やかな年忘れの会となっている。


『水の公園』

冬場お客さんが来ればストーブで温めた熱々の缶ジュースを…。


先日生原さんの所に取材で伺ったとき、ある企画書を見せてもらった。
『見せてやろうか〜。』とちょっともったいぶり、いたずらな眼差しで広げたのは生原さんが中心になって考えたという『水の公園』という公園の企画書だった。

黒い書類ケースの中には図面や書類などがぎっしりと詰っていて、実現に向けかなり具体的に進めてきた様子が窺えた。

春日居支部の観光協会の会長でもある生原さんは以前から春日居に観光スポットを創りたいと」思っていた。石和温泉は有名になったが、春日居にはこれと言って目立つ観光スポットがないのが現状。
しかし春日居には美味しい果物や美しい自然、そして錦鯉など立ち寄る価値のあるものが十分あることを生まれも育ちも春日居という生原さんは知っている。

でもなぜ水の公園?

『車で新潟に行く時たまに錯覚をおこすことがあるんだ。川沿いをずーと走っていると川の流れが急に反対になって、まるで下流から上流に流れているように見えるんだよ。それを見てると面白いな〜って思って…それで思いついたんだ!』

公園内にいくつかの水を利用した遊び場を作り、『見る』だけではなく『触れる』ことが出来るようにするというのが生原さんが大切にしたいコンセプトの一つ。

それには生原さんの少年時代の思い出が影響している。

『子供の頃近所の川に行って岩陰に隠れている魚をふしぐ遊びが好きだった。仲間と「ふしぎ行かだぁ」って言っちゃぁ出掛けたもんだ。』

『ふしぐ』とは『そうっと掴む』という意味の甲州弁。
TVゲームやインドアの遊びが多くなっている子供達に自分たちが知っている自然に触れることの楽しさを教えてあげたいと思ったそうだ。

企画を進めている中心メンバーは笛吹市役所春日居支部の観光課で働く飯田さんらである。
飯田さんも春日居育ち、生原さんとは昔から顔見知りだった。

現段階ではまだ建設計画はないが、『少年時代の夢とロマン』がたっぷりと盛り込まれた公園建設の実現を願いたい。

2006年1月12日(木)
(文と写真 折居 由加)
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