第4回 変革の時代と地域のリーダー
近藤喜則と藤村紫朗
福岡哲司(元県立図書館館長)
やまなし学研究第4回は、元県立図書館長福岡哲司先生をお招きして、明治期の改革のリーダー、近藤喜則と藤村紫朗についてお話を伺いました。今、山梨のリーダーに求められるものとは何なのか。二人の改革者から学ぶべき事は多いのではないでしょうか。
以下、受講者がまとめたノートを掲載します。このノートはT.Sさんが、講義中に取ったメモをまとめたものであり、講師のチェックを受けておりません。そのため、講義の主旨と一部異なっている可能性があります。
三年ほど前、私が山梨県立図書館の館長をしていた頃、図書館を建て直すという話が持ち上がった。それに際して、PFI方式(県は人件費と図書の購入費だけ負担し、ハコモノの建設は民間に資金を出してもらうという方式)で図書館を建設し、運営は指定管理者制度で行なうというアイディアが出された。
この案には、県内中で反対運動が起こった。知事選では、四人の立候補者がいたが、PFIと指定管理者制度を採用するとしたのは山本前知事のみ。残りの三人は県の直営で図書館を作ると主張した。選挙戦の結果は皆さんご存じの通りであった。そのため、図書館建築は仕切り直しという事になった。
だが、実は山梨県は、県立図書館を自前で作った事が一度もない。平和通り西側の図書館は、県立図書館としては二代目である。初代の県立図書館は、今の県庁内の南別館にあった。初代の図書館は、初代の根津嘉一郎氏、二代目の図書館は、三代目の根津嘉一郎氏が建築費を負担してくれたものなのである。なんと、今までの県立図書館は、二つともPFI方式で作られた物であった。
ハンナ・アーレントは「公共」をこう定義している。
「テーブルがその周りに座っている人々の真ん中に位置しているように、事物の世界がそれを共有している人々の真ん中にあること」
誰からも等距離で、等しくサービスを享受できる、大きなテーブルのようなものが、公共サービスではないのか。
ところが、いつのまにか「公共」とか「公平」といった言葉の意味するところは変容してしまった。「公平」という言葉は、機会均等という意味での公平を意味する言葉となった。誰もが同じ競争の場に立てる。誰もが努力をして、成功するチャンスが与えられている。そこでは、当然勝ち組と負け組が出てくる。
一方、「公共」という言葉は、個人が公からサービスを受けるという意味ではなく、個人が社会の為にどう貢献できるかを意味する言葉となってしまった。ベクトルが逆転してしまったわけである。
70年代、欧米発の運営形態――ニューパブリックマネージメントという物が日本にも入ってきて、PFIや指定管理者制度という物が登場した。
この頃「地方の時代」や「地方分権」と言ったキーワードが声高に叫ばれたが、実はこの二つの言葉は、似ているようで全く異なる物であった。
「地方の時代」と言う時は、地方に主体性があったのである。地方自治体は、住民自身による参加と統治の舞台であり、地方から国に向けて物を言える生気が地方にあった。アメリカの合衆国的な考え方とでも言おうか。
一方、「地方分権」と言う時は、地方自治体は効率本意の経営体と見なされている。民間企業の地方支社が独立採算制であるように、地方自治体が赤字を出したら、そこは潰されてしまう。
そうした状況下、1970年代、自治体の文化行政論というものが日本中を席巻した。当時行なわれた事業には、必ず「心豊かな」「うるおいのある」などという枕詞がついていた。
日本中で行政の文化化という事が行なわれた。日本中でホール・美術館・博物館が作られた。このハコモノブームが終わると、イベントブームが起こった。国体を山梨に呼んだ事を皮切りに、順繰りに大きなイベントを持って来て、インフラを整備し、人を回して県内を活性化しようとした。
当時は日本中でこうした事が起こっていたわけだが、その時に文化行政担当部局が教育委員会から首長部局に移されるという現象が起こっていたのをご存じだろうか。文化を行政の主軸に据えるのだから、担当部局は一教育委員会ではなく、首長部局であるべきだ。そして、もはや行政が啓蒙・教育を行なう時代ではなく、民間・市民が自立的な活動を行える時代になっているのだから、その活力を大いに活用しなくてはならないとされた。そのため、首長部局が財政・人を用意はするが、実質的には市民が中心となって活動することが奨励された。
だが、日本全国に作られた文化施設は、ソフト・人の面でレベルの維持ができなかった。人員は県庁の職員と教員が使われた。新規に雇うという事は可能な限り避けられた。人件費を増やす事が不可能だったからである。教員を退職まで使うわけにはいかないし、行政の人間も三年周期で入れ替わる。
こうしてソフト・人の面でのレベルが低下した結果、魅力が薄れ、人が入らなくなり、文化施設の経営は困難になってしまった。
これは日本に限った話ではなかった。1970年代、サッチャー政権のイギリスから始まった、ニューパブリックマネージメントという考え方である。日本では小泉改革で、民間でできる事は民間で、地方でできる事は地方で、という事になって行った。
ニューパブリックマネージメントという考え方においては、徹底した競争原理、評価の導入、政策の企画立案と執行の分離が奨励される。客が入らない施設は潰してしまえ。市民の役に立っているかどうか。業績・成果はどうなのか。プランは地方自治体が立案するが、執行は可能な限り民間に委託しよう。(ここからPFIや指定管理者制度という発想が出てくる)
「合併」「官から民へ」「国から地方へ」といったことを聞かされている現在、実は、我々個人も地方も捨てられて、しまいには公共サービスまで金で買うような時代になってしまっているのではないかという気がしてならないのである。特に今は未曾有の経済危機の中である。山梨はこれからどうなっていくのだろう。ゴミ捨て場か。あるいは死人の捨場か。
こうした時代に、地方のリーダーに求められているものは何なのだろうか。
近藤喜則(1932-1901)は南巨摩郡の睦合村(現南部町)出身。本陣の跡継ぎ。実業家、政治家、教育者。幼名を喬次郎。家督を継いだ後は東左衛門。維新後、喜則と名乗る。号は椎山・殖産人(蜀山人のもじり)。
幼少時、地元の学者に学び、逗留する役人、文人から学芸、諸芸を学ぶ。駿河の叔父のもとに寄留して学び、江戸にも遊学するが、これは「遊」の割合が大きかったようだ。
また、父が村役人であったため、市川代官所とのつながりもあった。市川大門出身の、西洋医術の広瀬元恭(京都蘭学塾・時習堂)、市川代官所御殿医で、咸臨丸でアメリカに渡った広瀬保庵から影響を受けている。
また、韮山で反射炉を作り、大砲を鋳造した、西洋砲術の江川太郎左衛門(36代目)に私淑している。
文化4(1847)年、市川代官所から長百姓(村役人の三人のうちの一人)に任じられる。嘉永6(1853)年、所帯を持って家督を継ぎ、郡中惣代職となる。
だが、西洋の学術への関心から、万延元年、長崎に遊学する。
慶応4(1868)年、甲斐国内は混乱の最中にあった。天領であったため、リーダーが不在。地付きの侍もいない。その中、武川筋を、信州方面から官軍が迫ってくる。甲州街道を江戸方面から幕府軍が来る。
官軍を率いてきた乾退助は、甲州人の性を見て、一筋縄ではいかないと考え、板垣と改姓。武田の遺臣を名乗って甲斐の国に入る。
幕府軍・近藤勇は甲陽鎮撫隊を結成。だが、道中歓迎を受けすぎてしまい、進軍は遅れに遅れる。
両軍は勝沼柏尾大善寺で衝突するが、両軍ともに兵員が不足しており、村々から兵を徴発。結果、素人の集団同士の戦争であったため、戦の呈ををなさなかったと結城無二三が回想録に記している。
だが、一応訓練された官軍側が勝利し、近藤勇は逃走中に捕縛される。官軍側では、近藤の有用性を認めていたらしいが、混乱の中、流山で斬首となる。
その中、甲府城は大混乱であった。徹底抗戦を唱える者。恭順を主張する者。黙って青梅街道を逃げる者。内藤新宿辺りには、金目の物を持って逃げていった勤番侍が大勢いたという。
甲斐の国は、天領以外は御三卿(田安家等)の支配下にあった。御三卿は、趨勢が決まってから行動する事にしたのか、明治2年まで傍観を決め込む。
リーダー不在の状況である。医療でも問題があったようだ。市民は病気になっても医者にかかれない。だが、甲府城の医者の何人かは、踏みとどまって、新紺屋に医療施設を作り、地元の漢方医・官軍の医者と協力して医療を継続したという。
この状況下、近藤喜則が考えたのは、この体制が変わる混乱の中、甲州には殿様も貴族も不在であり、誰が民衆を指導すればいいのかという事ではなかっただろうか。
また、近藤の座右の銘に「国本ノ根底タル育英ト殖産ニアリ」という言葉がある。この頃から、殖産興業と教育の重要性を認識していたと思われる。
明治2年、田安騒動。甲斐の国の四万三千石・107ヶ村は田安家の物であった。幕末から維新にかけての混乱の中、増税・金納強制等を行なったため、民衆は決起。新政府への帰一を願い出る。新政府は勿論これを承諾。兵力を持たなかったこともあり、御三卿は解体される。
この時、領民達は、一種の勝利感を味わったようである。御坂博物館の資料には「大願成就」と書かれた物もある。
だが、これは実は予定された勝利であった。新政府にしてみれば田安家を潰すいいチャンスであったからだ。
明治5年、大小切騒動。甲州には信玄公以来の優遇税制が敷かれていたのだが、これを撤廃するとした。農民は一揆を起こし、新政府から一度は大小切維持の証文を取り付ける。だが、続けてやってきた新政府軍により、証文は取り返され、首謀者二名が死刑。罰金3772。ちなみにこの刑を受けた者はみな村の支配層であった。
望月直矢『峡中沿革史』によると、甲州人にはこの時、挫折感・孤児意識(リーダー不在)を身につけ「骨なきなまこのごとき民衆と成り下が」ったのだという。
明治2年、南部本陣の近藤を頼ってきた幕府軍の「落ち武者」豊島住作(甲府定内徽典館同心、甲府図書頭。甲府魚町篤斉書屋の満田信了の息子)を使って、近藤喜則は、南部本陣裏手の寺に塾を開く。
明治3年になり、豊島住作を中心に、蒙軒学舎と名を変えて塾を発足。市川大門弓削神社神主の青島貞賢、儒者の矢口謙斎らも加わる。
当初は豊島住作という徽典館の助教授だった人間が中心だったため漢学が主であったが、次第に英学・西洋数学等が加えられ、近藤喜則の息子達が運営の中心となっていく。
漢学は四書五経の類が多かったが、英学科・数学科をみると、慶應義塾などで使っていた教科書を用いていたようで、レベルは高かった。ギゾー『欧羅巴文明史』ミル『代議政体論』なども翻訳したものを使っていたようで、考えてみれば、ここでは後の民権思想やキリスト教の思想も教えていた事になる。
明治6年、藤村紫朗が山梨県権令に着任する。間もなく以下のような通達を出す。
1.上意下達の徹底・迅速
2.租税の完納
3.「耕転牧畜」の奨励
4.戸籍・地券の調査・整備
5.交通の便を図る
6.殖産興業
7.「小学」を盛んにすること
恐るべき事に、藤村紫朗はこの七つのマニフェストをことごとく実現している。
また、大小切税法と新税法の差額の二割を国から下附させ、これを財源として以下の殖産興業策を行なっている。
1.日野原原野の開拓と桑・茶・葡萄の植え付け及び養蚕業の拡大
2.甲府市内に製糸工場建設
3.甲府元紺屋払い下げ地への桑・茶・葡萄の植え付け及び養蚕業の拡大
4.養蚕農家の増大
これを受けて、近藤喜則は地元でミツマタ栽培の啓蒙を盛んに行なった。富士川沿岸は痩せ地であったためであった。以前は市川大門・西島が全てを買い占め、生産量から価格設定を行なっていたのだが、明治2年、自由紙漉が始まる。明治8年には大蔵省紙幣局への納品が決定。明治10年、富河村(現南部)に資本金3万円で殖産社を創立。ミツマタ栽培の普及と品質改良に努めた。また、12年無利息・3ヶ年返済で資金1万円貸与という事も行なっている。
また、近藤は養蚕業・植林の奨励も行い、蒙軒学舎で学んだ影山秀樹は、富士市で富士勧業社を興して、静岡の養蚕業・製糸業の基盤を作った。
明治9年、近藤は蒙軒学舎の一部を利用し、各戸1日1厘の積立てを財源として義立病院を設立。県立甲府病院長福島豊策の斡旋で、名医中島慎一を招いた。(後の県立病院睦合分院)
その後、近藤はカナディアン・メソジスト宣教師・ドクトル・イビーを蒙軒学舎に招き、英語と聖書の講義をさせる。イビーは県中を回って布教に努め、市川教会、甲府教会等を作った。だが、上層階級に布教し、新たな文明の担い手としての成果は大きかったが、キリスト教の浸透ははかばかしくなかったようだ。
藤村県令は、着任して10年余の間に、山梨を全国のトップランナーに押し上げた。成果は以下の通り。
・小学校161開校、就学率59%(全国2位 明治6年)
・官業製糸場(明治7年)総工費2万7千円 工女200人
官営富岡製糸場(群馬)に次ぐ規模であったが、富岡製糸場がフランスの技師と技術を用いたのに対し、これは地元の名取雅樹の開発した織機を用いた。
・農工生産物価高 20円79銭(県民一人当たり 全国2位)
だが、短期の間にこれだけの改革を行なった藤村に対して反感を抱く勢力も出てくる。
明治10年、反知事派(民権派)メディア『勧風新聞』創刊。藤村は改革を急ぎすぎると主張した。
明治11年、第2回地方官会議で「地方三法」可決。市町村合併推奨、国費負担の府県費負担への移行という主旨であり、これは最近の趨勢と酷似している。やはり国が財政困難に陥ると必ずこういう事を言い出すのであろうか。
藤村は国から派遣されてきた人間であり、これを聞かないわけにはいかなかった。この頃になり、山梨県内は反県令派運動が高まっていた。県議会での反県令派は製糸業、貸付会社経営等の富裕層であった。有泉貞夫氏の調査によれば、反県令派メディア『峡中新聞』の株主226名は全て上層階級であったという。
山梨の民権運動は、全国のそれとは性質を異にしている。他県の民権運動が、薩長以外の不平士族の権利回復運動という性質を帯びていたのに対し、山梨には不平士族は存在しなかった。山梨の場合は、豪農・大地主による既得権維持の運動であった。
明治12年に県議会があったが、選挙権者=14205人(県人口の4.2%)被選挙権者=6154人(県人口の1.8%)という状態であった。結果、議員が決まる。議長は近藤喜則(県令派)。副議長は依田孝(反県令派)。こういう状況での県議会の運営は困難を極めた。
中島景晴という、元士族で、甲府城が潰れたときに逃げず甲府にとどまった人物は「議員となる栄を受けるのは全て田舎の豪農である」と述べている。
板垣退助が土佐・高知で全国の情勢報告をしている。「山梨は上流階級が民権運動をやっている。これが山梨の良い点であり、今後の課題である」
板垣の心配は的中した。明治13年の明治天皇中央道巡幸に際して、田辺有栄・古屋専蔵による国会開設直訴未遂事件が起こる。
明治14年、通常県会が開かれたが大荒れ。県令は常置委員会を設置し、全てをそこで決定しようとしたが、それが更に混乱を招く。中央でも大蔵重信が追放され、大隈と板垣退助を切り離そうという動きも起こっている。
そして、明治14年の松方デフレで、物価下落、倒産続出、失業増加、農村疲弊、税収減少。民権運動家たちも反権力活動に専念できる環境にはなくなる。
全国的には、上層部の民権運動家たちが日和った結果、下層部の運動は暴力化。テロリズム的色彩を帯びる。岐阜事件、腹水間事件、高田事件、大阪事件。
明治20年、藤村紫朗はついに愛媛県知事として転出。
この混乱の中、ついに明治22年、大日本帝国憲法発布。
明治21年、蒙軒学舎は休校となる。同年の近藤喜則の息子、蕗太郎、麟二郎の病没。三男の敏三郎は養子に行っており、後継者が不在。また、学校令が改正され、教育の目的が臣民教育へシフトされ、民権活動家の温床となるような私塾への圧迫も原因であった。
明治23年、第一回衆議院議員選挙が行なわれたが、現金買収、選挙妨害が横行した。樋口一葉がこの時の不穏な空気を日記に記している。
近藤喜則は第三区から出馬したが最下位であった。
明治31年から製糸相場暴落。その後、中小工場休廃業。女工の流出。明治38年からの自然災害の連続で、山梨は一挙に貧困県へと転落する。
明治39年「山梨県主催一府九県連合共進会」が開催されている。だが、これはかつてのトップランナー山梨の残光のようなものであった。
今、南部の蒙軒学舎跡には何も残っていない。だが南部中学には、蒙軒学舎ゆかりの地などと書かれていて、近藤喜則の碑がたっている。「国本ノ根底タル育英ト殖産ニアリ」。
教育と産業振興という、この近藤喜則の座右の銘を思い出す。
やはり、公と私というのが、歯車をかみ合わせなくてはいけないという気がする。やはり公でやるべきものはやるという事が大切なのではないだろうか。特に育英と殖産はそうではないだろうかと思うのである。
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