関東学生陸上競技対校選手権大会 ~学生達の熱き戦い~
第87回関東学生陸上競技対校選手権大会が、5月17日~18日と24日~25日の2週に渡り、国立霞ヶ丘競技場(東京オリンピックが開催)で開催された。
箱根駅伝が84回大会を迎えることを考えればその歴史の重さを痛感する。
通称“カンカレ”と呼ばれている。
関東学生陸上競技連盟に登録している大学は今年度149校登録者数は6000名を越えている。
この大会は男子の場合1部16校と2部校に別れて対校選手権として代表選手が戦う。
各種目1位8点~8位1点をもぎ取ろうと、おのずと競技も応援も白熱してくる。
男子の場合走・跳・投・混成・リレーを含めて23種目の総合得点で上位14校が1部残留となり下位2校が2部に降格。2部総合上位2校が1部校に昇格する。
今年の大会の総合得点の結果、来年の一部16校(日大・順大・筑波・東海・国士・日体・中大・早大・山梨学院・法政・東洋・駒大・慶大・城西・国武・明大)が決定した。
山梨学院は1500m優勝、5000m4位、10000m優勝、3000SC2位・7位ハーフマラソン優勝、10000m競歩2位・4位となり総合50点を獲得し1部残留を果たした。
1985年に創部した強化育成クラブとしての陸上競技部は、2年目で箱根駅伝初出場、7年目(箱根出場6回目)で初優勝。インカレは10年目の節目に1部校昇格を果たし今日まで1部校としてのプライドを胸に戦いの場に立っている。
入賞をかけての熱戦や、一部残留、又は昇格を賭けた死闘。
まさしく主役は戦いの場にたつ選手たちに違いはない。
しかし、この巨大な要塞のようなスタジアムの中で、主役と脇役を隔てる壁は無いとさえ感じる。
なぜならば、代表選手と応援、勝者と敗者、その明暗は明確でありながら、それを超える学生競技者のプライドと連帯を感じ取ることができるからに違いない。
それは、この大会も箱根駅伝と同じく、学生が母体となって組織運営する、関東学生陸上競技連盟が主催しているからだろう。
スタンドから声援を送る圧倒的多数の競技部員を含め、連日約400名の学生役員と学生補助員、約150名の学生審判員が、参加各大学から集まり、毅然と競技運営にあたっている。
その姿を見るにつけ、現場で指導に当たる私の目からは、誰かのために尽くし、サポートすることが決して裏方の仕事のように見えないからだ。
この大会の数年前のプログラムの中で、当時会長の故広瀬豊氏が、「関東学連は大正8年、1919年に設立されました。まだ日本陸連も日本学連も設立されていない82年(現在からは89年前)も前に、当時の大学、高専の選手たちが相集い、周囲の圧力に抗する形で、互いの親睦と切磋琢磨を目指して結成したのです。」と熱く語っている。
なるほどその歴史を紐解けば、今日に至るまでに、オリンピックをはじめ各種の国際大会に、多数の選手を送り出しているではないか。
優勝者に送られる優勝賜杯の数は、男子23種目、1部・2部校を合わせて46個。女子21種目、合計67個となる。
この中には、男子一部校で、100m・吉岡隆徳氏杯、10000m・村社講平氏杯、三段跳・織田幹雄氏杯、などかつてオリンピックで活躍した各大学OB選手の名前が各種目にある。
箱根駅伝創設のエピソードにしても、関東学生陸上競技連盟創設のきっかけも、当時の学生競技者のパイオニア精神と行動力が有っての事だったのだ。
その“志”の延長線上に、今の自分達が立っていることを忘れてはならないと思う。
閉会式を終え、スタンドでチームメイトの力走に声援を送っていた部員に声をかけると、精一杯の応援でほとんど聞き取れないほど声がかれている。
彼らの送った声援が、選手に届いたかどうかを図る指標などどこにもない。
しかしながら、お互いの心の中で共鳴しあっていたことはチームメイトの誰もが確信している。
そんな彼らの後ろ姿に、社会を生き抜くたくましさを垣間見た。
そして私自身も、明日からまたグランドに立つ力を与えてもらった気がする。
歴史の中に名を残していった選手たちの中にも、彼らのような記憶に残るチームメイトに、支えられていたことを思わずにいられない。
(監督 上田 誠仁)
関東学生陸上競技対校選手権大会 ~学生達の熱き戦い~
第87回関東学生陸上競技対校選手権大会が、5月17日~18日と24日~25日の2週に渡り、国立霞ヶ丘競技場(東京オリンピックが開催)で開催された。
箱根駅伝が84回大会を迎えることを考えればその歴史の重さを痛感する。
通称“カンカレ”と呼ばれている。
関東学生陸上競技連盟に登録している大学は今年度149校登録者数は6000名を越えている。
この大会は男子の場合1部16校と2部校に別れて対校選手権として代表選手が戦う。
各種目1位8点~8位1点をもぎ取ろうと、おのずと競技も応援も白熱してくる。
男子の場合走・跳・投・混成・リレーを含めて23種目の総合得点で上位14校が1部残留となり下位2校が2部に降格。2部総合上位2校が1部校に昇格する。
今年の大会の総合得点の結果、来年の一部16校(日大・順大・筑波・東海・国士・日体・中大・早大・山梨学院・法政・東洋・駒大・慶大・城西・国武・明大)が決定した。
山梨学院は1500m優勝、5000m4位、10000m優勝、3000SC2位・7位ハーフマラソン優勝、10000m競歩2位・4位となり総合50点を獲得し1部残留を果たした。
1985年に創部した強化育成クラブとしての陸上競技部は、2年目で箱根駅伝初出場、7年目(箱根出場6回目)で初優勝。インカレは10年目の節目に1部校昇格を果たし今日まで1部校としてのプライドを胸に戦いの場に立っている。
入賞をかけての熱戦や、一部残留、又は昇格を賭けた死闘。
まさしく主役は戦いの場にたつ選手たちに違いはない。
しかし、この巨大な要塞のようなスタジアムの中で、主役と脇役を隔てる壁は無いとさえ感じる。
なぜならば、代表選手と応援、勝者と敗者、その明暗は明確でありながら、それを超える学生競技者のプライドと連帯を感じ取ることができるからに違いない。
それは、この大会も箱根駅伝と同じく、学生が母体となって組織運営する、関東学生陸上競技連盟が主催しているからだろう。
スタンドから声援を送る圧倒的多数の競技部員を含め、連日約400名の学生役員と学生補助員、約150名の学生審判員が、参加各大学から集まり、毅然と競技運営にあたっている。
その姿を見るにつけ、現場で指導に当たる私の目からは、誰かのために尽くし、サポートすることが決して裏方の仕事のように見えないからだ。
この大会の数年前のプログラムの中で、当時会長の故広瀬豊氏が、「関東学連は大正8年、1919年に設立されました。まだ日本陸連も日本学連も設立されていない82年(現在からは89年前)も前に、当時の大学、高専の選手たちが相集い、周囲の圧力に抗する形で、互いの親睦と切磋琢磨を目指して結成したのです。」と熱く語っている。
なるほどその歴史を紐解けば、今日に至るまでに、オリンピックをはじめ各種の国際大会に、多数の選手を送り出しているではないか。
優勝者に送られる優勝賜杯の数は、男子23種目、1部・2部校を合わせて46個。女子21種目、合計67個となる。
この中には、男子一部校で、100m・吉岡隆徳氏杯、10000m・村社講平氏杯、三段跳・織田幹雄氏杯、などかつてオリンピックで活躍した各大学OB選手の名前が各種目にある。
箱根駅伝創設のエピソードにしても、関東学生陸上競技連盟創設のきっかけも、当時の学生競技者のパイオニア精神と行動力が有っての事だったのだ。
その“志”の延長線上に、今の自分達が立っていることを忘れてはならないと思う。
閉会式を終え、スタンドでチームメイトの力走に声援を送っていた部員に声をかけると、精一杯の応援でほとんど聞き取れないほど声がかれている。
彼らの送った声援が、選手に届いたかどうかを図る指標などどこにもない。
しかしながら、お互いの心の中で共鳴しあっていたことはチームメイトの誰もが確信している。
そんな彼らの後ろ姿に、社会を生き抜くたくましさを垣間見た。
そして私自身も、明日からまたグランドに立つ力を与えてもらった気がする。
歴史の中に名を残していった選手たちの中にも、彼らのような記憶に残るチームメイトに、支えられていたことを思わずにいられない。
(監督 上田 誠仁)

第84回箱根駅伝のゴール写真に寄せて
スポーツの持つ魅力のひとつに、心象風景を共有できることが挙げられる。
悲喜こもごもの思いを、同じ波長で感じる一瞬が必ず存在するからだ。
ましてやチームメイトやスタッフなど、長い助走のような日々を共にした者にとって
その一瞬は永遠の記憶として刻まれることすらある。

(写真提供: 報知新聞社)
報道写真としてあまり見られないアングルだが、心に響く写真だと感じた。
ピントは選手にではなく、ゴールラインの先で待ち受けるチームメイトに合わせられている。
大勢の報道陣に囲まれるこのゴールエリアは、チームの代表2名だけが入ることが出来る聖域だ。
右腕を高々と上げて笑顔で迎えるキャプテン篠原と、静かだが感慨深い面持ちの主務の加藤。二人の視線はゴールを目指すアンカー中川としっかりと結ばれている。
この一瞬に感じた心象風景をこの写真を通して、私もそしてチームの誰もが感じることが出来るだろう。
今回走ることが叶わなかったキャプテンは、個人としての無念を昇華した笑顔に、チーム作りの牽引者としてその重責を全うしてきた誇りと爽やかな風を感じる。
常にチームの縁の下の力持ちとして支えてきた主務の、選手たちやチームを見つめ続けてきた暖かな眼差しはチームへの思いが込められているようだ。
箱根駅伝のゴールテープが胸に触れた瞬間にこの大会は完結する。しかしアンカーの選手はもはやゴールテープにではなく、その先に待ち受けるチームメイトの胸に飛び込もうとしている。
ゴールライン数歩先の、襷が帰るべき場所へ。
選ばれた10区間の選手に運ばれた襷は、次の大会に向けての日々を送る場所へと帰ってきたのだ。
しかも、「ゴールラインを超えた瞬間に来年の大会に向けてのスタートが切られている」としばしば語られるように、アンカーは来年への第一歩を踏み出す選手ということになる。どのような一年にしなければならないか、それは襷が一番わかっている。
その襷を待ち受ける二人の表情が今年のチームのそしてこれからのチームのあるべき姿を示している。
監督が同乗する観察者はゴール手前数百メートルでコースから離れなければならないので、
実際にゴールシーンを見ることが出来ない。
それが許されるのは優勝チームだけなのだ。
(監督 上田 誠仁)
2007 新年度の挨拶
今年の桜は、寒の戻りで咲き控えていた桜のつぼみが、穏やかな春の陽射しを待ちわびたかのように咲き始めました。
人の心を引き付けて止まない春を象徴する桜は、絢爛豪華な満開の時や、儚く散りゆくせつなさなどが古来より詩歌に詠まれ、絵画となって親しまれています。
私はまず、春まだ遠い名残の寒さが残る頃、良く目を凝らして開花間近の力を一杯に溜め込んだつぼみを見ることが好きです。
健気に冬を乗り越えて、一心に咲こうとする姿がそこはかとなく心にエネルギーを満たしてくれるような気がするからです。
つぼみの先が思いのほか紅色であることは、血の滲むような努力の名残であるように思えます。その紅色こそがやがて花びらを桜色に染め、柔らかく温かな風情を醸し出すもとになっているのだろうと思えてきます。さらに、薄い花びらからは似つかぬ無骨で硬い外皮などからも、人としての生き様を語りかけているように感じるからです。
さながら「開花前は寄って見よ、開花すれば離れて見よ、散り行く時は目を閉じて思え」が私の桜鑑賞のツボです。
私の好きな言葉で「なにも咲かない寒い日は下へ下へと根を伸ばせ」があります。創部以来チームを支える言葉のひとつでもあります。その意味を毎年のように思うのもこの時です。
今日から新たなステージに立つ諸君を迎えるように咲く桜は、一瞬の華やかさに浮かれることなく、しばらくすると潔くその花びらと別れます。そして、次の来るべき春を目指して、葉を繁らせ、根を張り、力を蓄えていきます。
やがて来るであろう春を待って、寒い冬の間に根を張る努力をする。まわりから見れば枯れ枝のようにしか見えない冬木立。その時期にこそ根を張るチャンスがあります。
しかし、根を張る努力と言っても簡単なことではありません。根を張ろうとするその先には岩盤があったり、なかなか水脈に行き当たらなかったりします。
それは、スポーツの世界におけるスランプや怪我・故障などと重なります。岩盤に突き当たれば、それを包み込まなければなりません。水脈に行きつくまで、たとえ枝葉が枯れようが、根を伸ばす努力を放棄してはなりません。
苦しい時や不運を感じた時、人は往々にしてこれが限界だとあきらめてしまいます。
しかし、それは自分のコンパスで引いた自分なりの限定ラインであり、決して限界ではないことを知っておいてほしいと思います。
その限定ラインの内側で、「どうせ」「しょせん」と言う言葉であきらめるよりも、自分にとってはいちばん苦しい、そのラインの外側を夢見てチャレンジし続けることを願っています。
そして、そのラインを超えたとき、今まで小さかったコンパスが大きく成長していることに気付くでしょう。
それこそが、スポーツの醍醐味であり、面白さだと確信しています。
選手それぞれが、大地に根を張りつづけ、自分の持つコンパスを長く、大きく広げて行くことこそが、結果以上に大切なことのように思うからです。
人生における過去を変えることはできないけれど、自分と自分の未来は変えることができます。
年度の始めなればこそ、今の初心を桜の木に重ねてください。そして、四季の移ろいの中で思い起こしつつ、ともに歩み続けましょう。
(監督 上田 誠仁)
チームカラー
1985年の春、山梨学院大学強化育成クラブとして陸上部が創部され、時をおなじくして監督に就任した。時節の移ろいを表す言葉に「十年一昔」という言葉が使われるが、いつの間にか20年以上の歳月と歴史を刻んできたことになる。時の流れの迅速感や無常感は、職業柄嫌というほど味わってはいるものの、その時間の流れの中で出会い、旅立っていった選手たちのことを思うと、ことさら感慨深いものがある。
それぞれの選手たちは、大学での4年間をチームのプライドと自己の夢の実現に向けて、ユニフォームに身を包み、挑戦し、戦う。だとするならば、指導の原点として、その思いを象徴するなにかをチームのユニフォームや襷の色としたいと、創部に当たってまず考えた。そんなことを、桜咲く爽やかに晴れた青空を見上げて、思い起こした。なぜならば、ある人が「山梨学院大学のブルーのランニングシャツは晴れた日の青空のようですね。なにかいわれや理由があの色にはあるのですか」と尋ねてきたからだ。
それは、瀬戸内の海や空の色と、甲府から眺める風景から、思いを馳せたことから語ることができる。
私は、大学を卒業して4年間、故郷香川県の三豊工業高校で、瀬戸内に浮かぶ本島中学での3年間を含む貴重な教職経験をさせていただいた。少年時代から親しんだ瀬戸内ののどかな風景と相まって、色褪せることなく記憶のなかに息づいていた。そんな思いとともに山梨でスタートをしようとしたときに見渡した風景は、対照的であり、さらに共通点に気付き、その瞬間にこれこそがチームに進むべき道だと心に決めた。山梨の甲府は四方を山に囲まれた盆地である。富士山の美しい稜線と、刻々と変化してゆく空の色のコントラスト。それに呼応するかのように南アルプスや八ヶ岳の残雪に映し出される生き生きとした色彩の競演は、しばしば心を奪われてしまうほど美しい。穏やかに朱色や青を滲ませてゆくような、たおやかな瀬戸内の風情とは対極にあるように思える。しかしながら、甲府の地から見上げる空の青さと、凪の海に映し出される瀬戸内の空の青さは、そのとき確実に私の心の中で溶け合っていた。
少年時代、釣竿の先に広がった空と海の眩しいほどの青き原風景と、山梨学院に赴任して最初に仰ぎ見た深く吸い込まれるような空の青さの、感動と決意。それは心の中で幾重にも織り交ぜられ、これから始まるチーム作りの基本となるチームカラーにしようと決めたことを思い出す。少年時代の青き原風景が故郷を思い出す尺度だとすれば、その思いがあるからこそ甲府の空から果てしなく広がり行く無限の空に思いを馳せることができたのかもしれない。
甲府盆地から仰ぎ見る丸く切り取られたような空なればこそその空の広がりを思うのは、ゆったりと流れる河のように対岸を見渡せる瀬戸内も大海に通じていることを思うことと何ら変わりはない。
我々チームの選手たちの肩にかけられている空の色の襷は、限りなく広がり行く空に向かって羽ばたいていってほしいと願う色であるのかもしれない。
(監督 上田 誠仁)
オツオリの思い出
小学生の頃、近くの公園が遊びの本拠地だった。学校が終わってここに行けば、特段約束などしなくても、なじみの仲間と日の暮れるのも忘れて遊ぶことができた。この公園の横に武道場があり、低学年の頃は滑り台の上から勇ましい声と竹刀を打ち込む姿をよく覗き込んでいたものだ。興味や憧れもあって、いつしかそのひんやりとした板張りの道場で剣道を習うようになっていた。そこの年老いた館長は、私たちちびっこ剣士を集め、事ある毎にこんな問答をしてきた。「おまえたちは強くなりたいのかい」と問う。私たちは当然「ハイ」と答える。すると、決まって「いちばん早く道場に来て、最後に道場の鍵をかけて帰る、これがいちばん強くなる方法だよ」と教えられた。当時は、どれほど深い意味があるのかも知らずに、生意気盛りの私は「先生、いつもおなじことばかり言うけれど、秘伝の巻物でも出してきて、円月殺法みたいな必殺技を教えて」などと能天気なことを言って度々たしなめられた。それから20年近くの歳月を経て、私は山梨学院大学陸上競技部監督として、ケニアからの留学生オツオリを出迎えるため、成田空港のゲートに立っていた。彼は到着するや否や、私に「日本でこれから頑張って行くためになにかアドバイスをお願いします。記念すべきファーストアドバイスだからしっかり守ります」と聞いてきた。走るフォームのことなら後でもと言ったが、どうやらそうではないらしい。ケニアの指導者から「日本に着いたら、大学のコーチに最初にかけてもらった言葉を胸に刻んで頑張るように」と言われているので、今ここから始まる日本での、留学生活に向けてのアドバイスがほしいと言うことらしかった。なんと言って答えれば良いのか考えていると、心の中に刻まれていた言葉が思い出された。そして「誰よりも強くなりたいのならば、少しでも早くグランドに出てきて体の準備をして、時間の許す限りプラスアルファのトレーニングをして帰りなさい」と伝えた。その後チームに合流した彼は、その言葉のとおりに実践した。当時、早朝練習の集合時間が6時半頃だったにもかかわらず、集合時点ですでにしっかりと汗を滲ませていたのだった。その姿に触発されて、皆が集まる時刻が徐々に早くなった。数ヶ月後には6時と言えばすでに全員がスタートを切れるようになっていた。この原動力は、監督の指示ではなく、まぎれもなくオツオリという1人の外国人留学生の真摯な姿がチームを動かしたといえる。そんな出来事や思い出の数々が連鎖的に蘇えって来ると、とても故人を偲ぶという気になれずに、携帯番号をプッシュして一杯呑みに来いよと声をかけてしまいそうになる。どこまでも不器用で寡黙、しかしながら生真面目で思いやりに溢れた笑顔は、単に記録に残ったランナーとしてではなく、我々チームの中に末永く生き続ける記憶にとどまるチームメイトとして語り継がれてゆくことであろう。
(監督 上田 誠仁)








